数学教育を筆頭にした教育の問題とAI時代

算数・数学教育のばかばかしさ

数学教育における無駄

くまは算数・数学の無駄を省きたいと常々考えています。

例えば因数分解を中学と高校でやる。
公式の数が違うだけ。
こんなの一気にやってしまえばよいでしょう。

図形だって、初等幾何は概略と定理・定義だけ知っていればよくて、補助線などはその考え方を理解すればよくて、いわゆる「受験テクニック的な補助線の技術」なんて今更いらない。

そんな時間はがしがし削除して、解析幾何やベクトルに時間を費やした方が生産的だし、数学的にも意味があるのは明白です。

高校だって三角比と三角関数を別科目にして、学年をまたいで教えるなんて愚の骨頂。そういう無駄がともかく日本の数学教育には多いのです。

日本の数学教育は、そもそも「段階化しすぎ」なのです。その結果として、

同じ概念を、学年をまたいで何度も小出しにする

という極めて阿呆らしい構造になっています。


全体像を奪う教育

だから、

  • 因数分解
  • 三角比 → 三角関数
  • ベクトル
  • 微分
  • 座標

のようなものが、

「全体像が見えないまま反復」

となりやすいのです。そもそも数学は 概念ネットワーク なのですから、例えば因数分解も本来は、

  • 展開
  • 方程式
  • グラフ
  • 二次関数
  • 極限
  • 微積

と、つながっています。でも学校では、

この学年はここまで

で、切るから 「何のためにやっているのか?」 が見えにくくなるのです。


AI時代に必要な能力

補助線の語るもの

図形の補助線もそうです。これはいまだに高校受験の花形ですが、いつまでそれをやっているのでしょうか?

もちろん、補助線的思考の価値がないわけではありません。でも、現代では、

  • 情報整理
  • モデル化
  • 座標化
  • ベクトル化

の方が圧倒的に応用範囲が広いのは明白です。つまり、時代は、

「図を眺めてひらめく」

より

「構造へ変換する」

能力の重要性が上がっているのです。

これはAI時代とかなり関係があります。AIは計算や補助線探索は得意です。しかし、

  • どうモデル化するか
  • どう抽象化するか
  • 何を変数化するか
  • どの情報を捨てるか

は、人間側の仕事として残る可能性が高いのです。だから、旧態依然とした無駄を省き、解析幾何、ベクトル、構造化重視に切り替えるべきですし、そうしないと子供たちがかわいそうです。


つなぐ学問

次に三角比と三角関数を例にしましょう。

今、三角比と三角関数を別科目にして、学年をまたいで教えるようなカリキュラムになっています(2026年現在)。そしてこれは、2030年の改定でも変化ないようです。

これ、本当に多くの学生が「別物」だと思ってしまう原因になってしまっています。でも、本来は、

比 → 円 → 周期 → 関数

と、一本につながっているものです。そしてもっと本質的な話にすれば、

数学は本来「知識をつなぐ学問」

なのです。それなのに、教育制度側で切断されている部分がこのように存在しているのです。そしてこれは、もちろん三角比と三角関数に限った話ではありません。


写像はどこに行った?

大体、微積分までやるのに、写像が小中高のカリキュラムにないというのは異常です。だから塾や予備校で 「写像」をきちんと 教えると学生に感動されるのです。なんてばかばかしい世界でしょう。

もちろん、一部進学校などでは教科書範囲外の知識として教えてきました。でも、これは本当に大きい問題なのです。写像は本来、

「入力を別のものへ対応させる」

という数学の根幹なのです。

具体的に例を挙げれば、関数も、集合も、ベクトルも、座標変換も、微積分も、線形代数も、本質的には全部「写像」の世界なのです。この写像が教育課程の改正のたびに、現れたり、消えたりしているのです。

しかも、この「写像」が教科書に載っている課程の時代でも、独立したもの、単純なものとして扱われ、その根幹性は語られないのが普通です。つまり、本質的に、教育指導要領でも、現場でも「関数」は出てくるのに「写像」という 概念整理 はほぼないのです。

だから学生から見ると

  • 一次関数
  • 二次関数
  • 三角関数
  • 指数関数
  • 対数関数

などが全部「別物」に見えてしまうのです。でも本来は、どれも「対応」の一種でしかありません。だから、私のように塾や予備校で

全部写像なんだよ

と整理してみせると、一気に視界が開け、感動されます。これは学生からしてみたら、

「数学がつながった」という体験

になるわけです。


関係を見る教育

つながるという体験

こうしたつながる体験というのは、

  • DB
  • 情報整理
  • AI
  • 知識ネットワーク

などといったAI時代に必須のものとも完全につながっているのです。そこで必要なのは、単発ではなく、

知識と知識の対応

を見る能力であり、技術であり、考え方なのです。しかもAI時代は「知識量」よりも「構造を見抜けるか」ということの価値が圧倒的に高くなる可能性が高いからです。


知的体験と教育

以上のような教育を文系・理系問わず初等・中等教育のうちからしていかないと、AIネイティブをいびつな人間に育ててしまう可能性が高いと考えられます。

しかも「AIネイティブが危険」というより「構造を知らないままAIだけ使う」ことが危険なのです。人間は本来、

  • 情報を整理する
  • 関連づける
  • 抽象化する
  • 分類する
  • 要約する
  • 優先順位をつける

という処理をかなり苦労して覚えてきました。でもAI時代になると、

  • 要約
  • 分類
  • 検索
  • 文章生成

などはAIが先回りしてやってくれます。すると極端な話、

「考えなくても、それっぽいものが出る」

という世界になる可能性が極めて高いです。と、いうかなるでしょう。だからこそ、

  • カード整理
  • そろばん
  • アナログ検索
  • ディベート
  • 要約
  • 論理構造

のような 「人間側の情報処理」 を身体化しておく必要があるのです。


AI時代の最低限のリテラシー

これは単なる懐古趣味などではなくて、

AIを使いこなすための土台

なのです。特に危険なのは、

AIの答え=完成品

と思ってしまうことです。本来は、

AIの答え=整理候補

なのです。それを、

  • 比較する
  • 疑う
  • 関連づける
  • 再構成する

のは人間側なのです。だからこそ、文系、理系問わず、こうしたリテラシーを身に着けることが大切なのです。

実際、これは「数学教育」でも「国語教育」でもありません。これは

「情報と知識の扱い方教育」

なのです。そして、本来、図書館情報学がかなり近い位置にいた気がします。